外国語を学ぶ唯一の方法は「理由はともかく、とにかくそう言う」表現・語彙を出来る限り多く覚えることです。その理由は簡単で、言葉とはそういう表現・語彙の集まりで、私達が母国語を自由に話せるのも、それらを生活を通して一つ一つ学んだからです。日本語の「いい加減にしろ」を英語に直訳しても、英語人には全くピンときません。同様に英語の “enough is enough” を日本語に直訳しても日本人にはピンときません。言葉とはただ単語を文法通りに並べたものではなく「理由はともかく、とにかくそういう」ものだからです。日本語を英語に直訳しようとすると、文法学上は正しくても、殆どの場合「英語人はそういう言い方は誰もしない」文になってしまいます。
そもそも母国語を学校で教えるように文法から学んだ人は人類史上誰一人いないのに、皆自由自在に正しい文を作ることが出来ます。皆「とにかくそう言う」表現を数多く学ぶことで、文法学を知らなくても「普通そう言う、そうは言わない」で文法的に正しい文が作れるようになるのです。
先進国の中で日本人ほど英語が下手な国民は世界にいないと言って過言ではありません。他の先進国は全て欧州系の言葉を話しており、全く系統の違う日本語を話す日本人には不利だということはあるにしても、受験戦争だ、国際化教育だなんだと何十年も叫び続けながら、なぜこういうことになるのでしょう?
それは日本では本当の英語が全く教えられておらず、英語の話せない日本人が英語の文法に従って日本流に解釈した英単語を並べただけの、珍妙な「英語?みたいな言葉」しか教えられていないからです。今の日本の学校教育を続ける限り、日本人が英語を話せるようには絶対なりません。英語を学ぶ唯一の方法は英語を英語のままで全て学ぶことです。英語と日本語は全く別系統の言葉ですから、日本語を英語にそのまま訳そうとしている限り、英語が話せるようには絶対になりません。
日本の英語の教育法、教材の最大の問題は以下の点にあります。
- 語学学者・教育者と自称する人達、特に日本の英語教育者の殆どは英語圏での生活経験すら無く、本当は英語が話せない、が勝手に標準・正統と看做す表現、語彙、構文しか教えられておらず、さらに文法解析でがんじがらめになって、本当に米英で生活している社会人が本当に使っている生きた言葉を教えていない
- 社会人なら必要とされる語彙(単語、表現、成句等全て)の数に遥かに及ばない。社会人として機能するには何語にしても最小限でも一万、普通は二万程度の語彙が必要とされるが、既存の教材は多くても二千程度しか教えない
このため既存の語学教育で得られるのはごくごく簡単な意思疎通をする能力だけで、その言葉の映画、テレビを見ても全く解らない、辞書を引き引き新聞を読んでも良く解らない、一対一で話して相手が待ってくれる時は非常に苦労しながら何とか簡単な意思疎通が出来るが、集団の会話は全くついていけないことになります。その言葉を使う以外に選択の余地が無い場合を除いて、解らない、使えないから余計使わない、の悪循環になり、そのうちに僅かに学んだことすら全て忘れてしまいます。
膨大な費用を使って学校に行ったり留学したりせずに、自力で本当に使える外国語を学ぼうとすれば、残された方法はその言葉のウェブサイト、雑誌、映画、テレビ等を辞書を引き引きなんとか理解しようとする以外ありません。しかし実際にやってみればすぐに判りますが、それは極度に非効率的な方法です。古来の本の辞書はいうまでもなく、オンラインの辞書でも、調べようとする単語を切り貼りするにも相当な時間がかかり、かつ検索結果の中から正しい回答を読み出すにも更に時間がかかります。低質な辞書であれば本当に現地人が使う表現が含まれていないので正解はどの道見つからないし、巨大な辞書であれば大量の検索結果を全て読まないといけません。一文の中で意味が判らない単語が一つだけであればまだしも、複数であれば、正しい意味の組合せを推測することに更に時間がかかります。
外国語の映画やテレビをただ見ても語彙を増やすことは不可能です。人間は話す時に必ずしも全ての単語をはっきり発音はしておらず、それでも意思疎通が出来るのは、殆どの文はお決まりの表現で文脈から意味が理解出来るからであり、初級の学習者がただ聴いているだけで判るようには絶対になりません。母国語でさえ一つ知らない単語があるだけで話が解らなくなることが有るのに、勉強中の外国語なら尚更です。
辞書を全て丸暗記すれば殆どの表現・語彙を習得出来るかもしれませんが、実際それは不可能です。巷にある初級の辞書は本当に社会人が使う生きた言葉は殆ど収録しておらず、大型辞書なら10万以上も見出し語があり、その大多数は特殊な技術語や古語等、殆ど使われない文語です。学習者にはどれが大切なのか、どれとどれが類義語で使い方はどう違うのかも判らず、納得しながら学ぶことは完全に不可能です。類義語には類義語辞典があると言っても、既存の類義語辞典は例文も解説も無く、ただ単語を羅列してあるだけで、意味がどう違うのか、どれが大切なのかが全く判らず、その言葉を既に話す人達以外には意味がありません。人間は意味が判るもの、違いがはっきり納得できるものは驚くほど大量に、かつ比較的容易に学び覚えることが出来る一方、数字の羅列やお経と同様に意味の判らないもの、脈絡のないものは殆ど覚えることは出来ません。
私が昔日本で英語を学んだ時、約一万の語彙を学んだ時にそれまで殆ど解らなかった英字新聞や米軍ラジオ放送が突然解り始めたことを覚えています。この数は後に他の言葉を学んだ時も大体同じで、一般的な社会人としての会話をする最低限の数と思われます。前述の通り学校や既存の教材では二千程度しか教えないので、最低必要な語彙の五分の一程度にしかならず、当然のことながらその程度では実際は何の役にも立ちません。
更にこの基本の一万に加え、友達の間での冗談、社会風刺、政治経済、法律等のより高度な会話を自由自在にするためには、更にもう一万程度の語彙を習得することが必要になります。仕事は英語でなんとか出来る、大学の講義はなんとかついていけるが、英米人の友達同士の雑談になると何を言っているか全く解らないという経験が有る人は多いと思いますが、その原因は至極簡単で、単に私的な会話で本当に使われる語彙・表現の力が不足しているからです。私も日本にいる時に既にTOEFL・TOEICでほぼ満点を取りましたが、米国に移住した後、パーティーでの大勢の雑談、テレビの漫才等が完全に解るようになるにはしばらく時間がかかりました。
合計二万の語彙と聞いてびっくりするかもしれませんが、文学者などではない、ごく普通の社会人は誰でもその程度の母国語の語彙が有ります。社会人として機能するのには二千程度の語彙で充分などと喧伝する人達がいるようですが、笑止千万で、普通の社会人なら一般的な医学・法律・政治・経済用語だけでも数千を容易に認識しますし、本職どころか趣味の専門用語だけでも数百を扱う人は幾らでもいます。更にこの二万の語彙には人名、動植物の名前、土地の名前等は一切含まれていません。日本の普通の社会人なら少なくとも数百の一般的な名字を容易に認識するでしょう。
実際には私達は非常に豊かな語彙を自由自在に駆使しており、同じ意味のことを場面に合わせて幾つもの違った語彙を使って表現しています。同じ意味でも簡素な言い方、文学的な言い方、丁寧な言い方等を誰でも使い分けますね。また自分では積極的に使わない語彙も読み聞きして即座に理解するのには全く困らない力があります。私達が作る文の全てを意図的に徹底的に平易にすればかなり語彙を集約することができるかもしれませんが、実際にそうする人は何処にもいません。
そもそも二万の語彙を得ることは効率的に学べばそれほど大変なことではありません。私達は普通子供・学生時代に本を読んだりテレビを見たり、更に学校の勉強をしながら自然と語彙を増やしていきますが、それはある意味で非常に非効率的なやり方です。一方、本当に重要なものを優先し、かつ関連した語彙の意味の違い・使い方を納得しながら芋づる式に学べば、遥かに効率的に学ぶことが出来ます。効率的・集中的に学べば二万の語彙は早い人は半年もあれば十分に習得出来るはずです。
私は他にもスペイン語、フランス語、ロシア語、韓国語、北京語等、多くの言葉を独力で学ぼうと膨大な労力を費やしましたが、スペイン語とフランス語は何年もかけた後、何とか一通りは話せるようになったものの現地人程度とはとても行かず、他の言葉については十分な成果を挙げることは出来ませんでした。理由は簡単で、それらの言葉には本当に生きた言葉を教える教材が全く存在しないからです。一般に手に入る教材や辞書でどんなに学んでも、映画やウェブサイトに出てくる生きた言葉と全く違うのであまり分かるようにはなりません。日本語で例えれば、教科書に出てくるのはNHKのニュースの言葉だけで、友達同士で使う言葉は一切出てこないのです。中国のテレビドラマは中国語の字幕があるものが入手できましたが、その中の表現の殆どは有名出版社の大型辞書にすら載っていません。韓国語も一般に入手できる教科書は初歩の初歩だけで全く使い物になりません。韓国語は発音は大分違うものの、日本語と共通の中国語起源の語彙が殆どなことと、文法が殆ど同じなので、テレビドラマを見ているとかなり推測がつくようになりましたが、それでも膨大な労力がかかり「何故本当に使われている言葉を最初から全て教えてくれる教材が無いのだろう」と非常に腹立たしく思いました。
一方最近は各国語の「スラング辞典」と称するようなものが相当数ありますが、それらは逆の極端に走り過ぎ、ごく一部の若者だけが使うような流行語や性の隠語等しか収録しておらず、これも使い物になりません。それらの経験を基に、本当に意味のある言語教材を開発しようと思い立って作ったのが本書です。
最近ゲームやパズルをしながら学ぶ高価なコンピューターソフトの教材が大々的に宣伝されていますが、子供やあまりやる気の無い人が簡単な会話を学ぶ以外に、そういう小手先のやり方は本質的な解決には全くなりません。特に意欲があって効率的に最大限を勉強したい人達にとってはゲーム形式等はかえって時間の無駄です。言葉に限らず、学習が進まないのはゲームのように楽しくないからではなく、内容が理解できないことが最大の原因です。本当に効果の有る語学教材とは、本当に生きた言葉・語彙・表現を学習者に余計な労力を使わせず、最大限に高い効率で教える教材です。昔ながらの辞書を引き引き勉強するのは本来の外国語を学ぶという目的のためには何の効果も無いどころか、単に時間と労力の無駄です。
語学の習得は子供にしか出来ないと実しやかに言われますが、語学教育を初等教育から始めても効果が上がっている様子は有りません。外国語を習得した子供は単にその言葉に接触する機会が多い環境にいた子供達です。大人が外国に住んでも現地の言葉をなかなか習得しないのは、大人は子供の何倍にも及ぶ語彙を使うためにそれに比例した多くの時間がかかってしまうことがありますが、子供ほど実際に外国語を使う練習をしないことが最大の原因です。仕事で外国に住む人達の多くは結局本国との通信が多かったり、いざとなったら通訳できる人に頼ったりして、結局現地の言葉をあまり使わずに済ませています。仕事の会話は言葉は違っても共通の専門知識が背後にあるので、片言でも比較的容易に理解し合えます。家に帰れば家族とは母国語を使うし、今の時代インターネットで母国語の情報源はどこにいようともいくらでも見つかります。一方何歳であっても外国語を使わざるを得ない環境に身を置いた人達は皆その言葉を習得しています。複数の国が隣接する地域に住んでいて三、四ヵ国語を話す人は世界中に幾らでもいます。どうしても複数の言葉を話さざるを得ない環境にいれば言葉を学ぶのは特に難しいことではありません。ましてや知能や才能の問題では全くありません。生きた言葉の「理由はともかく、とにかくそう言う」表現・語彙に自然と晒されていれば、誰でも必ず話せるようになるのです。
文法中心の教育は無意味
誰にも否定の出来ない事実:
- 母国語を文法から学んだ人は人類史上誰一人いない。昔は学校は無かったし、今でも学校に行かない人は世界中沢山いるが、母国語が話せない人は誰一人いない
- 英米人で英語の文法解析が出来る人は学者以外いないが、誰もが英語を自由に話す
- 日本は文法がんじがらめの教育を70年近くやっているが、相変わらず日本人は英語が話せない
上記の事実が証明するように、文法中心の教育は言葉の本来の有り方に反しています。我々は単語を文法に従って並べているのではなく、自然に学んだ「普通そう言う」文章を雛形とし、部分を入替えて話しているのです。子供は周りの人達が使う台詞をそのまま真似する過程で、文法を意識せずに自然と学んでいきます。母国語ですら文法学的に解析出来る人は殆どいませんが、「普通そう言う」「普通そう言う言い方はしない」によって誰もが正しい文を構文することが出来ます。文法ばかり強調するから日本人は単語を文法通りに並べることだけに必死になってしまい、本当の英語とは似ても似つかぬ珍妙・滑稽な「和製英語」を作るようになってしまうのです。
言葉を学ぶ上で最も重要なのは語彙と表現を学ぶことであり、文法があまり重要でないことは、文法が多少間違っていても意味は十分に通じることからも簡単に分かります。例えば外国人が「昨日テレビ私見る」と言えば、「昨日私はテレビを見た」という意味であろうことは簡単に推測出来ます。しかしその人が「昨日、テレビ、私、見る」のいずれの単語一つでも知らなければ、何時何処で誰が何をしたのか全く解らなくなります。文法をどんなに完全に習得しようとも、語彙が不足していては言葉を使えるようには絶対になりません。
更に本来重要でない細かな文法のあら探しばかりするから、それが気になって余計話すことができなくなり、何時まで経っても実戦経験が育ちません。語彙を増やして文法が不正確でもどんどん言葉を使うようにすれば、実力がつくにつれて文法は自然と矯正されて行きます。日本の文法中心の英語教育に全く効果が無いことは、戦後70年以上の結果を見れば火を見るよりも明らかです。インターネット上には英語の文法を微に入り細に入り解析した日本のウェブサイトが山のようにありますが、そんなことをしている日本人は相変わらず英語が全く話せず、そのような知識の全く無い英米人は全員英語を自由自在に話してます。何かがおかしいと思いませんか?
また既存の文法教育では「最初は現在形だけを教え、それに慣れたら過去形を教える。仮定法は難しいから高等教育にならないと教えない」などとされています。しかし母国語では小学生ですら一通りの文法を体得しており、一般的な文法構文で難しくて普通の人は使えないものなどありません。小学生に話す時には仮定法は使わないようにしようなどと考える人もいません。泥酔した人でさえ文法的には正しい文章を構成出来るのです。
外国語を本当に使えるようになるには、一通りを網羅してどんな状況にも対応できるようにする以外無く、さもなければ十分な意思疎通が出来なくなり、結局その言葉を使うことを放棄することになります。一方、一通りを網羅することはそれほど大変なことでは全くありません。前述した通り、小学生でも母国語の文法は大した苦労も無く全て体得しています。 がんじがらめの文法教育を止め、母国語を学んだように生きた表現・語彙・台詞をそのまま覚えていけば、外国語の習得は難しいことではありません。「現在完了は have 動詞 + 動詞の過去分詞で形成する」等と理屈で説明・学習しようとするから判らなくなるのです。”I have never seen anything like that (=そんなものは今まで見たことが無い)” のような生きた台詞を沢山学んでいけば、文法を意識することなく、自然に正しい文が構成できるようになります。
既存の辞書・類義語辞典・重要単語集は役に立たない
既存の辞書・単語集の大きな問題の一つは、見出し語によってしか整理がされていないことです。英語には動詞と前置詞を組合せた慣用表現が非常に多く存在しますが、当然のことながらそれら全てが重要なわけではありません。例えば「give up=諦める」は英語で最も重要な表現の一つですが、「give off =発生する」はそれほど重要ではありません。しかし既存の単語集・辞書は見出し語の「give」に最重要な格付けを与えるだけ、その下に「give+前置詞」の慣用表現を単に羅列していあるだけで、そのどれが本当に重要なのかが分かりません。そもそも「give up」は意味からも重要度からも、「give」の下に属する関連表現では無く、独立した表現と捉えられるべきです。同様に「have something / anything / nothing to do with=関係が有る・無い」は英語で最重要の成句の一つで、独立した語彙として扱われるべきですが、これも「have」や「something」等の見出しの下に埋もれて学習者には明らかになりません。
また見出し語の「give」にしても最も重要な「与える」という意味の他に、「変形する、たわむ」という意味もありますが、それはさほど重要ではありません。しかし既存の辞書には全てが羅列してあり、学習者は情報の山の中を掻き分けて進まざるを得なくなります。他にも単独では全く使われないが、決まり文句の中だけで良く使われる単語も多くあります。このため既存の辞書と単語集は効率的に言葉を学び、語彙を増やすためには全く役に立たないのです。
また特に英語と日本語のように全く起源の違う言葉は一対一では訳せない単語表現が無数にあるため、和英辞典も言葉を学ぶためには全く役に立ちません。既存の和英辞典にある例文は殆どが日本語を無理に英語にした、英語人から見ると不自然・珍妙なものです。また英語でも日本語でも一つの単語に複数の意味合いが有る上に、同じ概念を重複して表す類義語・表現が沢山あり、それらを和英辞典のように一対一で結びつけようとすることは最初から不可能です。
既存の重要単語集のもう一つの大きな問題は名詞、特に固有名詞に偏重し過ぎていることです。言葉で一番大切なのは「何」の部分ではなく「どうしてどうなった」の部分であり、名詞は最も重要度が低いと言えます。既存の辞書や単語集には動物・植物の名前がやたらと多く掲載されていますが、そのような固有名詞は正確な名前を知らなくても他にいくらでも説明の方法がある一方、動詞、形容詞、副詞、接続詞等の語彙が不足していると「どうしてどうなった」が表現できず、正確に意思を疎通することは不可能になります。
旅行用表現集は役に立たない
ここまで何度も言葉とは「とにかくそう言う」表現の集まりだ、と言ってきたのに、旅行用表現集が無意味とはどういうことか、と思われるかもしれませんが、旅行用表現集のように非常に限られた範囲の表現だけを覚えようとすると、結局言葉としての機能を果たさなくなり、御経を丸暗記するのと同じでなかなか覚えられない、もし覚えたとしても、すぐに忘れてしまいます。また現地人が表現集の通りの返答をすることも殆どありません。
既に何度も述べた通り、言葉を学ぶ唯一の方法は「とにかくそう言う」表現を覚えることですが、生活の全ての場で使われる表現を学んで初めてその中に共通して存在する構文・文法を自然に体得出来るわけです。既存の文法教育の問題点の項でも述べた通り、言葉を学ぶためには結局一通り全てを網羅する以外に無いのです。既存の多くの語学教材は「一日15分の勉強であっという間に話せるようになる」等と喧伝していますが、簡単な挨拶が出来る程度のことを「言葉が話せる」と呼ぶのでもなければ、そんなことは絶対にあり得ません。母国語にしても社会人になるころまでに、最も効率的な方法ではないにしても、何年もかけて語彙・表現力を蓄積していくわけです。一通り網羅しなければ普通の人間として遭遇する様々な状況に対応出来ない、だから結局使い物にならない、使えないから使わない、使わないから上達しない、この悪循環になります。
意味の解らない文章はゆっくり言われようと何回聞こうと解るようには絶対ならない
昔から「英語の録音をとにかく繰返して何度も聞け」と言われますが、イルカの仲間同士の音をただ聞いているだけで意味が解るようには絶対になりません。普通の人が量子物理学の大学教授同士の討論の録音をただ繰返し聞くだけでは解るようにはならないのも同じです。昔から外国語教材はゆっくり話すものが殆どですが、母国語で幼児を相手に話す時、簡単な表現を使うことはあっても、ゆっくり話す必要は全く有りません。それどころか不自然にゆっくり話されると文節が曖昧になり逆に何を言っているのか解らなくなります。
文が理解出来るか否かは速さの問題ではなく、内容が理解出来るか否かに懸かっているのです。お決まりの台詞は当然のこと、頻繁に使われて聞き慣れている構文は簡単に推測出来るので、どんなに速く言われても理解出来ます。テレビやラジオの音声を録音してよく聞いてみると、台詞の中の単語の一つ一つははっきり発音されていないことが判ります。それでも私達が意味を理解できる理由は、言葉の殆どは決まった台詞なので、全てはっきり発音されなくても文脈から理解出来るからなのです。
日本の英語教育が現在の世界標準であるアメリカ英語の正しい発音を未だに無視していることも問題ですが、日本人が英語が理解できない最大の原因は米英人が本当に使っている語彙・表現を知らないからであって、速さの問題でも耳の問題でもありません。量子物理学の話を耳で聞いても解らない人が論文は自由に読める、或いは論文は自由に読めるが耳で聞いたら解らないということが有り得ないのと同じ事なのです。
日本語と英語は一対一ではないから英語は英語のまま学ばなくてはいけない
科学的に調査したわけではありませんが、米国にいると欧州語圏からの移民に比べアジアの移民は英語が下手なことに気がつきます。大きな理由の一つは英語とアジア言語は全く系統の違う言語だからと思われます。英語は元来ゲルマン語系の言葉ですがラテン語系のフランス語から多くの単語を輸入しています。ゲルマン語とラテン語は多少違うものの姉妹関係にあり、英語とスペイン語との違いを5だとすると、英語と日本語の違いは80くらいになると感じます。更に言葉の体系が違うだけでなく欧州とアジアでは文化が違い、言葉の底辺にある発想が根本的に違う場合が沢山あります。言葉の体系の違いと文化的発想の違いを組み合わせると、英語と日本語は一対一とは程遠く、直訳は多く場合不自然、場合によっては不可能になります。インターネットを見ると沢山の日本の英語学習ウェブサイトが「日本語の~という表現は英語で~と言う」と謳っていますが、その殆どは日本語を無理やり英語に訳したものに過ぎず、文法的には正しくても英語人にとっては良くて不自然、ものによっては珍妙・滑稽、最悪の場合は意味合いが違う文章になっています。
英語人と日本語人は多くの場合違った発想をし、同じ概念をかなり違った表現を使って表すので、英語を学ぶ際は日本語を訳した言葉としてではなく、英語のそのままのあり方を学ばなくてはいけません。またこの事からも言葉は単語を文法に沿って並べたものでは無いことが明らかになります。日本語を文字通り英語に訳したところで、文法的に正しくても現地人は誰もそういう言い方はしない場合が殆どで、本当に自然で通じる言葉を学ぶためには現地人が「とにかくそう言う」表現を沢山学ぶ以外無いのです。
本教材を使った具体的な学習の仕方については本教材の使い方を参照して下さい。